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これから蘇生します

以前にも、仕事のない日々が続いて、ピアノの練習に精が出たことをぼやいていましたが、また最近、そういう日々がありまして、ここんとこはラヴェルの作品に気が向いています。

「古風なメヌエット」「亡き王女のためのパヴァーヌ」「水の戯れ」どれも珠玉の作品ですね。
8月以来色々な曲を取り上げて自由に練習を続けてゆくにつれて、夏以前にはなかなか掴めなかった技法上の確信が、何とはなしに体感に芽生えつつあり、自分にさえ説明が出来ればいいものとしてのメソードをより鮮明に作り上げるべく苦心を重ねています。
ラヴェル以外には、ラフマニノフは勿論、セヴラックやドビュッシー、たまにはベートーベンやメンデルスゾーン、記憶済みの曲ばかりに甘んじないよう、新曲に挑戦していました。

そして・・・ラヴェルの組曲「鏡」・・・
どれも大変精密な技術が必要ですが、やはり何といっても4番<道化師の朝の歌>の連打の部分が、超大変です。

実のところ、大学時代から、自分には結局無理と決め付けて、というか実際無理で、こなせる人を羨んで、勝手に恨んでいました。憎んでいました。本当は僕だってバリバリ弾きこなしたい、何で自分の身体はこんなに不器用に出来ているのか・・・特にバネ運動的な技術が殊の外苦手であることに、心の中ではむせび泣く毎日でした。
そのような状態はまさに最近、今年の春先でしょうか、まで続いていました。

が、これまでの悲鳴にも似た執念の研究の成果が、今年の猛暑の最中、徐々に現れてきたように感じています。
24時間クーラーつけっぱなしで1ヵ月半ほど、家にいるときは22時までピアノに向かって、夜は酒浸りで、昼まで寝て、仕事の外出が無いとまたピアノに、という修行が、奏功してきました。
数年前から、「クープランの墓」の6番<トッカータ>に取りつかれていましたが、これにも好影響を及ぼす技量の進化は、少しずつですが明らかにあります。

まだまだ、確かな技法の確立には遠く及びませんが、あの超大変な連打の部分にも、これからの展望が少し見えてきました。インナーマッスルではありませんが、身体の中のどの部分が、どんな間違った考えを持っているせいで、本来できるはず(こう絶対的確信するべし)の連打なり様々な演奏が不具合を呈しているのか、常に自分と対話しながら現状の打開を目指し続けていくと、方法は一つずつ見付かってきますね。

僕が自分との対話でよくこだわることは、[自分がつまらなくても、否むしろ自分がつまらない感覚にある時こそ、他者への良き波動の提供のために全力でハッスルする]という体感の発動についてです。
自分がつまらない、というのは、難なくこなせるところと同じようには弾けないことが判った途端に瞬時に現れる愚痴の感情で、それはすぐさま、身体内部の運動の鈍さに波及します。
難なく弾けないという事実は確かに残念な現象なので、この愚痴の感情が起こらないようにすること自体は無理ですが、即時に打開への一歩が踏み出せるかどうかで、大きく変わってきます。

身体内部の運動性に、不本意な指などの現状に屈しない心の発露としての[躍動]を呼びかけ、表立っては[弁舌爽やか]なり、[スマートな身のこなし]なり、曲想に見合った表出を狙って、身体のどこかにある新しい技法を編み出すまで、時間の限り繰り返し練習する・・・
一朝一夕にとはいかなくとも、連日の研鑽の成果は必ず現れるもので、この夏にある程度実感しています。
これを、連打のところにも確実に実現できるべく、明日からも続けます。

ベートーベン曰く「暗闇を突き抜けて歓喜に至れ!」だったかな?
彼の真意はともかく、演奏技術の発展を求めて苦心するのも、歓喜に至りたいからですね。
何も、楽譜上の音符を一音も間違わないことが目的ではなくて、その記譜に託された作曲者の衝動から理念までを、出来ることなら余すことなく再現したい、そのためには一音たりとも、技量不足を理由に間違いたくは無い、ということです。
本当に確実に弾きこなせるようになったら、またその次元での課題は出てくるでしょう、あっせても仕方ないですが、早く次の段階に進みたいものです。早熟の天才どもに、負けてはいられません。
最後に、一番悪どい自分が出てきました。
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  1. 2010/09/29(水) 02:55:47|
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敬老会

9/20(月)午後、京都市下京区の淳風小学校体育館にて行われました敬老会に、ボイストレーナー中島貴子さんの歌の伴奏で出演しました。

学校の体育館ゆえ冷房などが効かないので、参加者方々も幾分お辛かったでしょうが、楽しんで聴いて頂いていた、と思います。

この度のお声がけをしてくださった伊藤様に、感謝です。


我々音楽家は、我々の演奏を人々に楽しんでもらえて、かつ生活にもつながることが、生きがいです。
その意味で、中島さんと、今回のような出番がまたあれば幸い、と話していました。
あくまで、経済的な面での欲は僕ばかりのことですが。

また、依頼される側のご好意に甘えての楽しい気分に飲まれたような怠慢だけは、決してしてはならない事も、変わらず確認していました。

ともあれ、市井の人々にとっての一服の清涼剤ともいえるようなひと時が、僕たち音楽家の演奏で提供できるのなら、できる限りの時間と労力を充てて、あちこちに遠征したいものです。
どなたか、親しみやすい歌のコンサートツアーのプロデューサー、いませんかねぇ・・・

僕としては、これまでの仕事で知り合ったバイオリン奏者とのデュオでの、名曲シリーズみたいなのも、いいなあと思っています。
  1. 2010/09/21(火) 02:50:03|
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ラフマニノフ  プレリュード Ges dur

9/18(土)は、サロン・ドゥ・アヴェンヌにて、お客様ご出演日での進行&共演でした。
13,4名のお越しで、ピアノ、バイオリン、ヴィオラ、フルート、クラリネット、声楽、いつもながら多彩な顔ぶれでした。

ブルッフ作曲の、ヴィオラとクラリネットとピアノのためのトリオの曲集から2つを、僕がピアノを担当でしましたが、僕は初見で、3人のアンサンブルは練習なし、いきなりのセッション(笑)でした。
しかしながら、なかなか面白く演奏でき、お客様方々にも喜んでいただきました。
ほかにも、名曲の数々が目白押しでした。

そして最後に、恒例の僕のソロをしました。
ラフマニノフ プレリュード Ges dur です。
この数日間、結構数を重ねて練習しましたから、全体的な内容の表現は自分としてもそこそこOKでした。
しかし・・・いつも記憶に苦しんでいた箇所は、残念ながら溶解(崩壊の手前)しました。

でも、でもです、お客様から、いろいろ賛辞を頂戴しました。心は音全体に託されていたようです。
[全身からの言葉だった]、[絵のような曲でした]、[完全にあの曲の中に入っていましたね]、様々に形容しての感想を拝し、ラフマニノフの楽譜から感じ取ったことを余すことなく聴衆に伝えようとした振る舞いが、間違いでは無いことを確信しました。

次に披露するときには、勿論のこと、グレードアップした演奏を、必ず成し遂げます。
記憶に関しても、やはりいわゆる<感覚>だけにあやかろうとせず、作曲家のアイデアとしての和声の並びと繋ぎを、1音ごとにちゃんと読みきって、大雑把な勢いで殴り弾きする愚挙から脱却します。
実のところ、今回もまた、それを徹底しなかったことを悔いています。いい加減に成長せねば、凡庸の苦海の底深く沈んでいってしまうでしょう、進まなければ後退ですからね。惰弱な心を恥じるばかりです。

[和声の使用および操作]を、人の作品の演奏であろうと、いやむしろ人の作品の演奏の時こそ、自分の言葉として了解や納得をし、そして構成をしなければいけない。
<人間は、和声なるものに何を見出しているのか>といった命題とも常にリンクしながら。
それが天才の気まぐれの産物でも、敢えて例えれば自覚のない赤ん坊の泣き声に生命の雄叫びが確信されるのと同じく、何がしかの形容または説明または解析されるに値する内容が、[和声の使用および操作]に深く存在する。また、曲全体を見渡せば、遍満している。
これは、まさしく人類にとって宝です。我々音楽を生業にする者は特に、この宝を冒涜してはなるまい。

以上、今日の反省文でした。
  1. 2010/09/19(日) 01:50:59|
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近々の予定

9/18(土)大阪北新地のサロン・ドゥ・アヴェンヌにて、お客様ご出演日の進行&共演(伴奏など)担当。
       今回はどなたがお越しになるか、またどんな曲が出てくるか・・・大勢来られれば幸い。

9/20(月)下京区の淳風小学校体育館で行われる敬老会に、ボイストレーナーの中島さんと、出演します。
       日本の歌を中心に、30分ほどのステージになるでしょうか。

最近、出番が非常に少ないので、ほとんど家に籠もってピアノと取っ組み合ってます。
おかげで、また出来ることが増えてきました。
しかし、何かもう少し、仕事をしないといけません・・・
念ずれば通ず。何とかします。それまで、じっくりと技を磨きます。  
  1. 2010/09/16(木) 04:48:43|
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無言の修行

ジャズピアノレッスンに行ったのと、白洋舎へクリーニングを取りにいったのと、食事をしに出たのと食料を買いにでたのと、これら以外は家に籠もりっきり、という日々が、5日続いています。
明日・・・いや今日13(月)も同じようになるでしょう。そのつもりです。

先週の月曜日あたりから、この週末の過ごし方について、どうしたものかと少しばかりなやんでいました。が、元来アウトドア派では無いからどこかに出かける興味も湧かず、かと言って自分から飛び込みで仕事を取りに出かけるような才覚も無いし、それでもホームレスの人たちのようなことは無く、生き延びるに足る程度の仕事の予定はしばらくある(はじかれたら終わりなので、どれも大事ですが)から、・・・この数日間を、ピアノの技を高める日々にする決意を固めていました。

酒好きですので、夜10時までの自宅練習が済むと、ぶらぶらコンビニへ行き、酒類とつまみやおかずを買い込み、家でだらだら飲んだくれます。
そして、明け方、寝ます。そして、昼過ぎに、起きます。
やっぱり、だれとも会話しない日々が続くというのは、相当なエネルギーが要りますね。
この数日間ばかりは、家族の存在価値を、深く感じました。
基本的に独りで生活することが好きですが、せめて3日に1回は、仕事などで人と何かしゃべるのがないと、さすがに肩が凝ります。餃子の王将で管を巻いても仕方ありませんし。

しかし勝手なもんで、家族の居る環境は、どうも自分の気ままにはいかないわけですから、それを想像すると独りの喜びを再確認してしまいます。

お一人様にすれ違うカップルや家族が最近やけに醸し出してしまう、「私たちは心を通わせあう相手がいるから、そんな独りで強がっている人のような寂しさから逃れられてとっても幸せです」というような幸福感の主張に、僕はしょっちゅう出くわします。主張とは、各々方が無意識に出してしまっている気分だから無自覚でもあるでしょうが、結構自覚しているものにも遭います。
僕は、人がその社会的なレベルでの自分の立ち位置について、しばしば悲観的に認知していることを、上記のことがらでよく感じます。・・・独りで行動する、いや独りでしか行動できないことが、何にもまして屈辱で惨めなこと、その姿を他のグループに見られるのだけは、なんとかして避けたい、[孤立]を嘲笑されたくないから・・・
詮ずる所、自己自身が[生きる]ことの哲学に暗い。自分の存在理由の根本を<他者からの承認>に求めている、脆弱さ。
そして決定的な問題は、<今現在自分はそこから外れている「惨めな自分」を地でいっているように見える人が目に入った>瞬間に、「ああ私はあなたのように惨めじゃなくて、ちゃんとグループしてて、孤立してない。あなたのやせ我慢は、それを必要としない私とそばの仲間には、全く対岸の火事です。ああ幸せ、わたしは今あなたのようでなくて。見てご覧、惨めさから開放されている私の幸せを。あなた、辛いんでしょうに、」といった感じの空気や表情、そして目つきを、その制御不能の悲しさのままに浴びせてくること。

実際、十数年前の僕は、人付き合いも下手で、仕事もできず、特に彼女居ない暦ン年の惨めさに泣いていたころは、カップルなどとすれ違うたびに卑屈な気持ちで絶叫せんばかりに悲しかったものです。

しかし、いろんな意味で、年月が僕を鍛えてくれました。もちろん、自分なりに様々なことについて考えました。考えてノートに書き、夜を明かしたこともあります。
しばしば、僕は人の精神的な欠点に目がついてどうも不快になることが多いのですが、仕方ありません。
賞賛か罵倒か、こればっかりに気をとられて生きる空気が蔓延していると感じます。
多勢か無勢か、戦国時代でしょうか?
仲間意識こそに幸せな暮らしの本質を見ようとするような雰囲気に、いとも簡単に染まっている人、多いと思います。

僕のほうからも、何かしら厳しいオーラが、強烈に出ているのでしょうかね?
自己自身をちゃんと自立させている素敵な連れ合いを、必ず見つけます。そうでないと、マジで仙人になってしまいますから・・・
  1. 2010/09/13(月) 03:29:41|
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ジャズは伝統芸能?

僕は、このマキ音楽院にて、岩瀬章光先生のジャズピアノレッスンを受けています。
年数だけは3年を越しましたが、一向に伸びません・・・自分で言うのも恥ずかしいことですが。

受講当初から、なかなか指導を受け取れないことがあり、実のところ、悶々とした3年間でした。
しかし、最近ようやく、その悶絶は、いい感じの研究意欲へと、自分なりに変貌しつつあります。

悶絶していたほどですから、目前の課題をつぶさに解析するのは現在のところ不可能ですが、改めてスタートラインには立てるようになった、という実感があります。

いわば、形の見えない精神論のようなものに寄りすがることばかりで、具体的な構築への第1歩に着手することこそが実際に大事なのに、それがどうしても有名無実に感じて、提示してもらっていることを理解しようとできずに、わざわざ自分の理解不能の闇に手を入れて暗中模索を繰り返してきたのです。

ジャズとは、何か?・・・[そんな]事は、もちろん大事だけど、口で言って満足するのは世界のトップクラスのジャズメン(勿論先生を含む)か社会運動家か、はたまた評論家にまかせればいいのですね。
ただ考えられることは、いくらジャズが奔放に聴こえる音楽であっても、決して無から生まれたものではないし、往年の天才たちが大きく開発してくれた様々なアイデア(ほとんどまだ判ってません)も、よく考えられ、練りこまれ、推敲を重ねられてきたものですから、そこのところを学習して、つまり模倣の繰り返しを基本の作業として、築き上げられてきた理論と共に、一つ一つ把握していくしかない。
その意味では、現在に実演する者にとってのジャズは、すでに伝統芸能かもしれません。

まだまだ、[その何たるか]という見地でジャズに向かうことは、現在の僕には出来ません。
当然のことです、今からアラビア語かスワヒリ語の会話を習い始めるのと同じで、いきなり総論的精神論や本質論を具体例と照合する作業に<勤しむ>のは、ビギナーとしては噴飯物の振る舞いです。
しかし、この3年間、僕はそれを長々とやらかしてました。

これから、一からとの気持ちで、シンプルにビートを感じ、アドリブフレーズの適用の訓練を地道にやり、いちいち美学的審美の土俵に乗せて査定したような気分にならず、ただ練習する月日を、ぼちぼち重ねていきます。
  1. 2010/09/10(金) 04:54:01|
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